loader gif

petapeta: “以下の記事によれば,終戦から講和までの間に,天皇は退位を決意したことが3度もあるという.  以下引用.  最初は終戦間もない20年8月29日.  当時側近だった木戸幸一内大臣の「木…

petapeta:

“以下の記事によれば,終戦から講和までの間に,天皇は退位を決意したことが3度もあるという.
 以下引用.
 最初は終戦間もない20年8月29日.
 当時側近だった木戸幸一内大臣の「木戸日記」によれば,
「戦争責任者を引き渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが,自分一人引き受けて退位でもして納める訳にはいかないだろうかとの思召あり」
と書かれている.
 だが,木戸内大臣は陛下が責任を認めれば,かえって逆効果になりかねないと押し留めた.
 1ヵ月後にマ元帥との初会談がある訳だが,当時の陛下の心境を思うと,
「自分はどうなってもいい」
という発言は,あながち後からマ元帥が誇張したものとも思えない.
 2度目は昭和23年の秋のことである.
 21年から始まった極東軍事裁判の審理がその年の春に終わり,A級戦犯25名の判決が11月12日と予定されていた.
 退位論議が急に高まったのは5月頃だった.
「A級戦犯の判決が近付いて,判決を機に天皇は退位する事を考えています.
 その明白な資料が23年11月12日付で,マッカーサーに当てた田島道治宮内庁長官の手紙です」
と,先の秦郁彦氏は話す.
 この親書は「退位せず」の決意を伝えるものだが,あえて親書を出さなければならないほど陛下は退位を心に決めていた証拠だという.
「マッカーサーは占領遂行に天皇の影響力が不可欠と考えていましたから,退位の決意を知って慌てて吉田首相を通じて説得させたわけです.
 その説得に応じたという報告が,この書簡だったわけですよ」
 皇族や閣僚の中には,退位に賛同する者も多かったというが,マッカーサー元帥の占領政策のために,ご自分の意志を通せなかった.
 3度目の決意を阻んだのは吉田茂首相だったと見られる.
 時期は講和条約発効を控えた26年10月から11月にかけてのこと.
 前出の「木戸日記」の未刊行部分にその時の経緯が書かれている.
 巣鴨プリズンに入っていた木戸幸一が,人を介して陛下に講和条約発効を機に退位を進言した.
 その結果について,11月28日の日記にはこう記されている.
「御退位の御希望は陛下自身にもあり,又田島長官も松平康昌式部長官も同じ意見なるが,只吉田首相は至て此の問題について無関心な様子なので苦慮して居る.
 陛下は8月15日前後に其御意向を吉田首相にお伝へになつた様に思ふとのことであつた」
 陛下も退位の希望を持ち,宮内庁幹部も同意したが,吉田首相だけは同意を示さなかったというのである.
 天皇退位となれば,内閣総辞職は当然のことだろう.
 当時,政界では講和を花道に吉田首相勇退論が強く出されていた.
 政権を維持するには退位していただいては困る.吉田首相の無関心には,そうした思惑があったからではないのか.
from 「週刊新潮」,2006/3/16号,p.73”

Rule of MacArthur FAQ|軍事板常見問題&良レス回収機構

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください